2013年07月07
作者近況 2014年01月 2013年11月 2013年09月

05/23朝 昨夜、少しでも見えてきたことを、書きとめようと思ったのだけど、、、なかなか酔わない酒を飲んでいたら混乱してしまい、今朝になって続きを書き始める。

Minor White の存在。。。10代の頃、付き合っていた女性に、写真集を見せたとき、、「変な名前」そういわれて思わず聞き返したが、名前のこと以外は、あまり関心を示してもらえなかった。。。当時の一般的な感覚からすると、彼の、完全抽象,は、デザイン性とは、少し離れていて、H.Callahan や、 Aaron Siskind の方が受け入れ易かったのだと思う。

10代の頃から最も影響を受け、同じような被写体に接するたびに、彼のように撮りたい、、、そう思い続けている。。。それは美しい光の反射であったり、抽象的に神秘的な自然の造形であったり、特に、抽象的な(私がそう感じる)、サブジェクトに接するときに、、、

技術書も、私の時代になると、A. Adams よりは、彼の、New Z.S.Manual のほうがなじみがあった。しかし、、、オリジナルを見る機会はほとんど無く、まれに数点、他の作家と一緒に展示されていても、代表作ではない、少し印象の弱いイメージであったり、、、日本では、なじみが薄い、、、そう考えた方が素直だと思う。

完全に抽象的な世界、、、日本人が、思い描く写真の概念からは、踏み込むことの出来ない、結界のようなものが、そこにはある。。。自分も、そこにあこがれ続けているのだが、、、、一般的な日本人が、抽象を理解する為には、そこにいたる道筋を、、何か、、、その、結界を破る糸口が、必要なのだと、思う。。。。

たとえば、E.Weston のもっともポピュラーな作品は、Pepper 30 だと思うが、この作品がポピュラーなのは、やはり、、、被写体がピーマンであることが解るから、、、、、そこが、普通の人を抽象に引き寄せる入り口になると思う。。。作家の、創作への道筋が見え、、、抽象的な世界へ、一緒に入っていける。。。

Minor Whiteのイメージには、そういう、、作家の道筋は感じられない。画面は潔く、カメラの存在や、迷いが無い。。そこにあこがれる。。。

私が作家活動を始めた80年代、、、作品が売れることはほとんど無く、、、、極まれに、泥のイメージの中でも、鳥の足跡が読み取れるイメージが売れたりする。。あるいは抽象的な氷の中に、よく見ると植物のかけらを認めることが出来る物、、、そして廃墟。本来、、、「何か」であったものが、朽ち果てて、かすかに差し込む光の中で、写真になる為の形態を表し始める。。。。。。。

あくまで、直感的な、アメリカの写真とは違い、どこか、日本人の感性に呼びかける、、、さわりのようなものが、自分の作品の中には仕込まれていると思う。そして、最近感じるのは、ゼラチンシルバーの限界点を表す表現、、、、他の素材とは明らかに違う,その独自性を、出来るだけ画面の中に取り込もうとする、、、

もちろん、芸術とは、、、独自性(その素材の)の、、、結晶だと思う。。。。しかし、、少し疑問を感じ始めている。

本当に作りたかったものは何なのか?もちろん、今の自分の作品を否定するわけではない。。。その、見せ方?プリントの大きさ?

Minor White のプリントは、ほとんど、とても小さいものだ。そして、印象は、たとえ、Web のつたない画面でも、よくつたわってくる。(これは私の好きな写真家のほとんどのイメージに言える事だが)そして、もしオリジナルに触れる機会があるのならば、、、その、美しさに驚く。小さくて、、、そして、、美しい。

彼のようには創れない、、、昨日、彼の写真集を見ていて、、、ふっと、、、自分の写真の、新しいトリミングが見えてきた。そう、、、、迷いを切り捨てていかなければならないと思う。そして、、抽象への入り口は、、小さいプリントの中にあるように感じる。

何もかも見せるのではなく、、、その視点で、見えるものだけを、、、、

Minor White 、、、彼の、不思議な感覚が、伊豆の展示の中ではっきりと思い出されてきた。意外と写真集は少なく、、Web で見つけるイメージも、始めてみるものがある。ずいぶんむかしに、アメリカ人の友達から、彼は自殺したという話を聞いたことがあるが、、、調べていても、その内容には行き当たらない、、

彼から写真を学んだ、多くの写真家がいる。。。。芸術家は死なない。


05/22 千葉に戻って数日を過ごしている。スタジオから持ち帰った仕事も何とかこなして、昨日からは、かなり古いプリントを整理し始めた。。。特に、90年代の廃墟のプリント、、、

伊豆から戻ってからは、ずっと Minor White のことを考えている。写真における抽象、、、、


05/19昼 まだ夕方まで時間があるが、買い物に出かけ、、、買ってきたウィスキーとビールを飲んでいる。

昨日、伊豆の展示を終え、まずは、都内のスタジオまで。。展示作品をおろした後、Wynn さんを自宅に送ってから帰宅。ゴールデンウィークほどではないが、混んでいる道で1時を過ぎた頃、御宿に。月明かりがきれいで、眠れない、、、結局、明け方に休み。今朝、起きたのは10時過ぎ。スタジオから仕事を持って帰ったので進めなければならないのだが、、、今日は、ゆっくり、そして、しっかりと、、、飲むことにした。

いろいろと、気になっていたことが、展示を終了し、少しずつ見てて来た。それと平行して、学生時代から、最も好きだった、Minor White のことも、、、

彼が、死の少し前インタビューで話していたことを思いだす。。。

A Zen saying: when someone's pointing at moon,why look at his thumb?

言葉は、まやかしだと思う、、、だけど、言葉がなければ、見えないものもある。。。全ては見るものの心の中に、、、、、


05/18夜明け前 スタジオ、ロケの仕事を終え、日付が変わってから伊豆に向かい、伊東に着いて今は、3時を過ぎている。

ここ数日で数時間しか寝ていないが、不思議に、今日も、、そして今も、大丈夫。伊東の道の駅に着いたところだが、、時折、汽艇が聞こえる。月がきれい。

伊豆の展示の最終日と、撤収のために伊豆高原に向かっている。明日は。9時にアトリエに入り、4時のの終了後に作品を撤収する。

ずっと気になっていた、作品のギミック、、つまり、どこまで、作家自身を見せるかということだと、思うようになった。

作品の、キャプションが、展示のイメージを阻害する感覚は、販売目的の工芸品でなければ、まったく問題ないことなのだが、今回、木戸さんの作品のキャプションが、私の感覚に、不思議な疑問を問いかけてきた。、、、今やっと、それが、少しずつ、、すこしずつ、見え始めてきたように感じる、、つまり、、作家の、存在が前に出ることは、、写真を、工芸として美術として、見せる場合、とても、マイナスな要素が付きまとうということ、、、、、

自分の作品のことばかり気にしていたが、、、つまり、構成を、まとめすぎると、単独の作品でなく、作家の存在がそこできわだってしまう、、、それは、、素直に作品を見てもらう上で、マイナスだと、、、、、、そして、なぜ、それに気づいたかということになるが、カラーの作品は、あまりにも一般的に、見る側も心象をコントロールすること、、、モノクロでは感じないのだが、雑誌でも見ているような、、見る側のスタンスを、こちら側で決めてしまっているように感じる、、、、

そして、それが自分の作品にも、表現の要素を絞りすぎると、結局、解釈を限定してしまうことを、感じるようになってしまったのだと、、、、、

ただ、見てもらいたい、芸術としての理解がほしいのだが、それは作品に対することで、作家に対することではない。。。

どんなに、自分を見つめ、、何度も道を正しても、、自分は愛することはできないが、、、おそらく、、いつまでも、、、、

自分の生み出すもの、作品への愛情は、隠すことができない。。。生み出すものがすべてであって、自分ではない、、それが、、芸術を求める気持ち。。。

生み出すものへの愛情は、、、隠せないのだと、、、もうすぐ夜が明ける、、、、

何か、、、すっきりした気持ちになって、明日は展示を終える。。。。少し眠る、、眠れない、、、、、


05/09 スタジオに戻ってきた。明日は横須賀をロケハンで、日曜日はロケ。ロケ場祖は明日、、横須賀を見てから。

05/05深夜 連休の渋滞の中、伊豆からの長い道のり。久しぶりに自宅に戻った。高速の渋滞、高速代の小銭をケチったこともあり、、、10時間ほど、休まず運転した。

朝の地震のこともあり、途中、スタジオに寄って、機材やセットの状態をチェックする。特に倒れているものもなく、今回は被害はないようだ。

伊豆での生活は5日間。久しぶりに、自分の作品と正面から向かい合って過ごした。いつものことかもしれないが、何か、自分の作品の中に、いやらしい、ギミックのようなものを感じて、、、長い時間、いろいろな時間を、、、、、、その空間にかぶせながら、自分が本当に何を感じているのかを、考える。

いつも、日本で、、日本人に、写真が芸術で、、、、工芸として、美術であることを解ってもらいたいと思っている。それこそが、海外ではなく、この国で作品を見せ続けることの、意味だと、、、

ただ、それが、どのような意匠で画面に現れているのかは、、、、試行錯誤というよりは、幼稚な小細工に過ぎないといえなくもない。。。

日本人の感性に、何かを伝えること、それを意識していると。、、、少なくとも、自分には、、ありきたりの、さわりのような部分や、写真的な美しい表現をわざとらしく画面に,配置しているように,,,、そんなことを考え始めると、、、構図から受ける印象も、、、これでよいのかと、、、すっかりナーバスになってしまう。。。

今回、そんなことを考えながら、他のメンバーの作品にも長い時間接してきた。その中で特に気になったのが、木戸さんのカラープリントだ。

作品そのものは、彼女の感性で、すばらしく、仕上げられているのだが、、、、その4点をまとめるキャプションが私には、、、どうにも、、、納得がいかない。以前、モノクロのプリントに添えられていたエピソードは、その作品の価値を高めるもので、感心させられたのだが、、、今回のキャプションは、ギミックなのか?

そう感じる理由??、ずっと考えていたのだが、作品がカラーである事意外は、、、今は思いつかない、、、カラーの作品に、聞きなれた、ありきたりのキャプション、、、、日本人への入り口かもしれないが、、、ギャラリストやライターの感覚からは、、、プリントそのものの価値を、、、なんとも安っぽく、ありきたりのものに置き換えているように感じてしまう、、、、、、、。つまり、何か雑誌のカメラマンの仕事に見えてしまう。単独で輝いていたものが、ありきたりのソースをかけられて一気に普通のの料理になってしまったような失望の感覚、、、、、

そして、、その、マイナスの感覚は自分の作品に、、、どんどんのしかかってくる、、、、、、私の作品の気になっている部分、、、、つまり、、そういうことなのか??あるいは、、、ただ、、、多くの人に会って疲れているだけなのか。。。

今日は疲れた。明日ゆっくり考えよう、、、、、、、、、


04/29 伊豆でのビューイング用のポートフォリオを準備している。。展示してある風景と、違ったイメージということになると、廃墟や、抽象的な作品かな、、、箱ではなく、いつものケースに入れて10枚くらい、、、販売する相手が決まっていて見せるのではないのであまり気が乗らない。。。これは、ビューイングが、と、言うことではなく、選んでいる今の作業、、、

今夜遅くスタジオに入り、明日の撮影の後はずっと伊豆での生活になる。その前に、あるいは、その準備がいろいろ、、、6日は戻る予定だが、、、

伊豆の展示はとてもたくさんの人がやってくる。あまり人に会うのが得意ではないので、正直、少し憂鬱な部分もある。他のメンバーは、皆、話し好きだから良いのだが、、、、


04/28 やっと新作のページをアップ。

やっと伊豆の搬入を済ませて自宅に戻った。明日は、スタジオに向かい、撮影を終わらせたあと。再び伊豆へ。

芸術とは、、、生をたたえるもの、、、死に寄り添うもの。自分の芸術の存在を、、、少しづつ理解し始めている。。。いよいよ展示がスタートする。


04/26朝 作品の額装を終えた。これから梱包し、車に積み込む。夕方には都内で春日さんと合流し、夜のうちに伊豆に入る。展示作業は他のメンバーと一緒に明日の朝から。会期は5月1日からだから、少し余裕がある。

新作のリストをこのWeb にアップしなければならないのだが、それは、作品のキャプションと共に会期の始まり直前になりそうだ。


04/24 暗室の片付けを終えた後、一日中スポッティング。やっと。終わった。今日、もう一日プリントするかどうか、かなり悩んでいたのだが、作業を終了し、展覧会の作品を決定した。

いかにもと言う感じの、風景を4点。予備の一点を加えて5点を仕上げた。印画紙は、100枚で10万円。一仕事にかかる経費も馬鹿にならない。。ただ、だからと言って銀塩が大変だとは思わない。それに見合うもの、、金額に見合うものは必ず生まれてくる。。。。。。言い換えれば、、、生み出さなければならない。煮え切らない構図、幼稚な絵柄だと思っていても、少しづつ、素直な目線で育てていけば、いつかは見たときの感動にたどり着く。。。

銀塩は豊かだ。あたたかく、細部に美しさが宿る。自分が、まだ、その全てを生かせないことが、もどかしい。。。そう、作り続けることが、、意味がある。

デジタルの写真に携わるようにって、20年。決して、片手間ではなくその世界を模索してきたが、、、銀塩の、、自動的に生まれてくる、、予期せぬ美しさ。。。。。これを超えるものを見つけられない。

かなり悩んだ末、ドライマウントすることにした。。。作品は、そのとき美しく見えればよい。それ以外のことは考えない。

明日は、マウント作業から。マットを切って、額装まで仕上げる。

伊豆では、今年もスペシャルのエディションで、No.1を販売する。。。ある意味、伊豆でなら出来ること。。。とにかく買ってもらいたい。見せるだけではだめだ。。。オリジナルプリントの意味、それを伝えたい。


04/23 ずいぶん長い時間作業を続けた。新しいイメージに加えて、気になっていたものを1点。

初めて見えてきたものもある。当たり前の視覚だといってしまえば当たり前の風景。自分自身でも、それが何なのか時々わからなくなる。。。ただ、撮影したときの気持ち、見たものは、その紙の上にある。表現は,,,,ここから始まる。廃墟でもそうだった。ここが入り口。。。

風景とは、、ある意味、当たり前の光景だ。そこに、問題を感じると立ち止まってしまう。。。一見、まったく新しい表現は存在しない。その入り口から、自分の道を切り開く。見た目が特別だとか、そんな意味ではないのだが、、、

写真を学び始めた頃、作品をも持ち寄って、それぞれの批評を聞くようなディスカッションが授業の中であった。それは、、、今でも良くあることで、、あう意味、ポートフォリオレビューも、、、間違った解釈の中では、そんな、ご意見伺いの教えを請うような受身の場所だと、言えなくもない、、、

ただ、考えてみよう。新しいものを生み出すのは、、、そこまでたどり着き、、、そこに何らかの、不審を抱き始めた人間だけなのだ。。。何も生み出さない人間には、何も解らない。見てやるという、上からの世界には、理解できる人間など、存在しない。

一度学んだ経験のある人間は、臆病になる。。。肯定してもらえないと前に進めない、、、、、

プレゼンも、ステイトメントも作品があってはじめて存在する。ワークショップは学びの場所であって、こびる場所ではない、、、まず、作って見せなければならない。。。世の中には作れない人間が多すぎる。。。作ってみせる、、それこそがワークショップ。

私は、人に教えることが出来ない、、、まずは自分が造らなければならない、、、それこそが、私の夢になり、誰かの夢になる。


04/23昼 昨日のイメージをやり直すのか、、、さんざん悩んだ末、、しばらく様子を見ることにして次のイメージに進む。

昨日仕上げたプリントのハイライトが気になっている。

もっと輝かすべきなのか??プリントサイズを大きくしたことで、細部の美しさが、ぐっと引き出されてきたが、何か、、普通に見えてしまう不のリアリティー、、、そんなものも見けるようになってきた。。。ぐっと抽象的なフォルムを強化して、自分のイメージに近づけるべきなのか??細部に、美が宿ると言うことは、、、再び被写体がリアリティーを持ち始める。。。つまり、富士山なら、、富士山に見え始めてくる。。部分的なコントロールは必須だ。

少し時間をおいて考えたい、、、、今日は新しいイメージを進める。。。これも難しい、、、初めての空間。

昨日は長い時間作業して、、、それも、その前日のものをやり直し、それから、、新しいイメージに取り組んだ。。。あまり、無理をしないことだと思う。

久しぶりに、湯船につかり早めに休んだが、体の痛みで、休まらない夜だった。気がつくと激しい雨が降っていたり、真っ暗なのに鳥が鳴いていたり、、、いっそ起きてしまおうかと思いながら、いろいろなことを考えて、、、やっと少し眠った。

物を生み出すことに、、、たとえば、、、明日にも、夢はないのだと感じる。かなえる夢などないのかと、、、そんなことを考えていて、今のままであることが、、今日を続けることが自分の夢なのだと感じたら、ふっと眠りについた。


04/21朝 週末からプリントを再開。サイズを決め、イーゼルマスクを作った。。。昨日のプリントのチェックとフラットニングを今、終えた。

昨日はアリスタの紙で延ばしたが、腰の弱い紙に苦戦して、クラックが入っていたものが1点。3点は使用可能で、まずまずの滑り出し。ドライマウントするかどうかは、未定。この紙質だと本来ならマウントしたいのだが、少し弱気になって、プリント単体でも見せられるように、1インチ以上の余白を取ってサイズを決定した。

今日、手がけるネガをまだ迷っている。。難易度の高いものをやるか、、それとも、、簡単なもの、、、、


04/17昼 今日も撮影は昼から。午前中は別の仕事のデータを処理していた。

昨日大坂さんの展覧会を再び見てきた。。。。。スタッフが来る前に、と、思って日記を書いていたのだけど、早めの到着で、書くのはは夜になってしまった。

仕事が終わり、すっかり遅くなってしまったが、続きを書き始める。。

今回の展覧会は、風景の撮りおろしなので、ある意味、いろいろな要素が、整理されずに見えてくる。新たな試みとして8x10のカメラからの引伸ばし、、、、それ以外は、6x6の見慣れたフォーマット、、、。カメラは、被写体と、作家の距離を決める重要な要素のひとつだと思う。

6x6の作品は従来のスタンスだが、8x10になると、急に、カメラの存在を感じてしまう。。。これは、先日バウハウスギャラリーで、ディアドルフ展を見たときにも感じたこと、、、、

扱いにくいカメラには、そのカメラの味付けが、作家の感性を超えて画面の中で見えてくる。。それはもちろん、、効果として成り立っているわけだが、、カメラに撮らされている感じ拭い去れない、、、もちろん、それが味となり、、、、新しい、、作風が生まれていくわけだが、、、私には、他の作品とのギャップがあまりにも多きくて抵抗を感じた。。。全体の印象からは、、わずかなことなのだが、、作家としての感覚なのか、、、レンズの短さとか、、、

そう。被写体との距離感。これが作家の最も大きなスタイルだと思う。スタンス、、立ち居地?と、いうのだろうか、、、時々、自分も、普段の目線から解放されたくて、いろいろなカメラを使う、、、それは、はっきり、、カメラの味付けのある素材、、、たとえば、ポラロイドだったり、トイカメラだったり、、、

私の場合は、息抜きの抜け道を探しているのだが、本来、アーティストにとっては、それは、、大きな入り口なのかも知れない。、、、私は、感性にコンサバなのか???

そういえば、ハードの進化の記事も、ここのところよく目にする。たとえば、sony の高感度センサーのムービー。真っ暗な、夜の風景がカメラの感度を変えることで、少しづつ明るく認識できるシーンへと変わっていく、、、、このムービーの解釈はまちまちだと思うが、私の感じるところは、、つまり、アーティストの感性は、、そのカメラのテクノロジー以前に、そこにあるということ。。。。今まで表現出来なかった、その人の目線がそのカメラによって可能になる。。。これはすばらしいことだ。

でも、、、それに振り回されて、これを使って作品を作らなければ、、取り残されてしまう、、、、なんて考える日本人は、、少なくない。

使うために生まれてきた道具に、、、振り回されて結局、、、芸術は生まれない。

ここ数日、まったく表情の違う、美しい月を見ていたのだが、、、今日は見当たらない。。。そう思いながら夜道を歩いていると、ふっと見えてくる。。。つまり、、、求める人に、それは、見えるのだと。。。かすかな、明るさ、、、これも美しい。


04/14朝 昨夜遅くスタジオに入り、今はスタッフが来るのを待っている。今週は、ほぼ全ての日がスタジオワーク。一週間の暗室作業の後なので、電車の中でも人の多さに気持ちが落ち着かなかったが、撮影にはすんなりなじんでいく自分を不思議に思う。

先週は、ほぼ1週間プリントを続け、伊豆の展覧会の作品を絞り込んだ。週末に戻ったら、本番のサイズのプリントを仕上げてマットなどの額装を済ませ、そのまま、伊豆に搬入する。

今の自分には、統率された理念はまったく無く、、、、ただ、、、引き寄せられるものを探している。たとえ、何もかもが、ばらばらで、とてもかみ合いそうに無いことでも、、、吸い寄せられれば、その中に入っていく。

ばらばらなものが、、少しづつ光を放てばそれでいい。そう思いながら、いろいろな人と、時を過ごす。答えは無いのかもしれないが、何かが生まれ、何かが残っていく。どこかに、あるいは、何かにたどり着くことは、もう考えない。


04/11朝 昨日のプリントをチェック。イルフォードに新しい現像液を試した。印画使用にPQを処方するのは初めて。ただ、昨日の絵柄では色調が判断しづらく、今日、、もう一度、ローキーな絵柄で試す。出来ればイルフォードで本番を仕上げたい、、、

市販のリキッドタイプはたぶん、PQだと思うが、自分で処方するときは、学生時代からの癖で、いつもMQタイプ。主薬の量が多く、安心感がある。今プリントを見る限りでは少し調子が浅く感じるのだが、、、、、、

朝の日差しの中での中で、プリントを複写しているのだが、いつのまにか太陽が高くなり、同じ場所だとベランダの物干しの影が入ってしまう、、、春が終わればすぐ夏が来る。夏の陽射しを思い出した。


04/09夜 長い時間作業した。一枚のネガを1/4刻みで露光し、乾燥して濃度をチェックする。何とか思っている諧調にたどり着いたが、自分のイメージを作り上げるのはこれからの仕事。。。このネガにここまで時間をかけてよいのだろうか ???

そういえば、先日、大坂さんの写真展のオープニングで原直久先生にお会いした。PGIなど写真展に出向いても、お目にかかることはなく、おそらく20年ぶりぐらいではないだろうか、、、、

写真を学んだ学校のことは、あまり良い思い出でではなく、履歴として書くこともないのだが、、、大学でこの先生に学んだことは今思うと、とてもまれな体験で、、、現在の自分には、、大きな影響があったと思う。

写真を撮らない人間ばかりの学校で、ただ一人、、、写真家であった。。。そして、、、そこから、アメリカの写真に触れる入り口を得たと今、思う。

学校に入るずいぶん前から、、、高校生の頃からだが、、、4x5インチのカメラで作品をつくり始めた自分にとって、、この上ない幸運だった、、、、、もちろん、芸術としての嗜好は異なっていると思うのだが、、製作に対するスタイルは、、、そこから身についたものではないのだろうか。

学校に入ったばかりの頃、先生のお宅に伺って、地下の暗室で、自作の8x10の引き伸ばし機を見た。。。そこがスタートだから、自分の機材は、自分で作ればよいと、当たり前のように思えたのだと思う。。。。スタイルは自然に、、身についていくものだ。

それから30年以上の月日が流れ、、今の自分がある。。。。気が向けば1ヶ月以上、一枚も取れなくても北海道の原野で被写体と向き合うこともある。そして、。。一枚のネガを1週間以上、何度もプリントする、、、、、誰にも邪魔されることはない。

20代の頃、あまりに時間がなくて、学校や、公務員をうらやましいと思った事もあるが、、、今の自分を、、超える、幸福は無いと思う。

もちろん、、、あまりにもうまくいかなくて、、もうやめてしまおうと思うことばかりだが、、、、、自分と向き合えること。。。それこそが人生。


04/09朝 コーヒーが入るのを待っている。昨日は結局一枚も光を通さず、今日はフラットニングする紙はない。

どうしても諧調がつかめない。どのように仕上げれば自分の見たものになるのか?、、、まったく解らない。銀塩の場合、その答えを、印画紙やフィルムが出してくれたりするので、比較的簡単だと思いながら仕事をするのだが、、、被写体が変わると、まったく道筋が見えない。

では、デジタルならば可能なのか?それはまったく関係ないことで、個別に諧調をコントロールする言うことではなく、どういう諧調にすれば見たものに近づくのかが解らない、、、何かが妨げている。

これだけ写真家がいても、美しい写真と言うのは意外と少ないものだと思う。デジタルの技法が加わっていくらか増えたと私は思うが、、、、、この、、輝きは銀塩のものだ。銀のフィラメントだから、可能な表現。

今日は、ネガを選ぶのはやめよう。とにかく光を通す。紙も決めてしまおう。ケミカルは?


04/07 暗室作業が終わってから、無料配信の映画で、バベットの晩餐を見た。

最も好きな映画が、今見られたことは、とてもすばらしい。。

貧しい芸術家はいない、、、。そして、何かをかなえることの美しさ。


04/01朝 一通りのプリントを終え、出かける準備をしている。今回は時間があったのでゆっくり時間をかけて、ネガを調べながら作業した。朝には乾燥の終わったプリントをフラットニングして、窓から差し込む朝日で複写する、、

プリント作業は、まだテスト段階。まず使用するネガを決め、次に仕上げの為に、紙を絞り込む。仕上げのサンプルプリントが仕上がったら、今度はサイズを絞り込み、イーゼルを製作して、いよいよ仕上げのプリントに入る、、、、、

新作のネガに光を通してみてどうなのか?今回はテスト用の印画紙をArista のEDU に変えてみた。イルフォードの白さが気になって、現像液を柔らかくしなければならないことへの対策だが、、、この紙は黒がチープで、、コントラストに迷ってしまう。本焼きなら、さまざまな技法で濃度を上げるのだが、、、ある意味反射濃度言うことではなく、、、紙の質感による黒の深みが足りない、,、味の問題だが、、、どうにも、、、コントラストが決めずらい。。.

先日のコレクション展を見てきても、、、、そう思うが、、、作家には、、その人の作品だとすぐにわかるスタイルがある。。。

何度もやり直すのは、、、自分のスタイルになかなかたどり着かないからなのだが、、、、、この道筋は一つではなく、、それぞれの被写体でアプローチは大きく異なる。。。。どこを滑らかにするのか、、、どこを輝かせるのか、、、、そしてプリントは相対的な濃度に支配され、、、どこかを輝かせるには他のところを少しづつ沈めていく必要もある、、、、、

そして仕上がったプリントは、、私が見たものに近づき、そのスタイルをまとっていく。。。

まだ、テストプリントだが、Face Book に、撮影時のデジカメのデータとサンプルのプリントの両方をアップするようにした。デジタルデータは撮影時のカメラも画面に入っているもので、被写体とのスタンスも読み取ることが出来る、、、

なぜそんなことをするのかということになるが、、つまり、、その被写体をどのように受け止めているのか、、どのように仕上げているのかと言う部分を、、モノクロームの意味と共に、、伝えたい。

いずれは、Webサイトで公開しなければならないと思っているのだが、、どんな言葉よりも、一枚の画像の方が伝える意味は多いのだと思う。

なぜ、モノクロなのか?なぜ、カラーなのか?

とてもたくさんの人が写真を志している。。。ちょっと前は、プレゼンの方法、「ポートフォリオの効果的な見せ方」みたいなワークショップが多かったが、、最近は、ステイトメントの書き方みたいなものを、目にするようになった。。。

言葉が添えられて美しく見える写真もあるが。。。全てがそうではないことも確か。

今日は大坂寛さんの写真展へ。


03/27深夜 昨日、自宅に戻り暗室作業を再開。まだ調子が出ず、今日は準備程度に終った。一度眠り、深夜に起きてこの日記を書く。

日曜日に春日さんのアトリエを訪ねた後スタジオで2日間の撮影、その後、先週始まったバウハウスギャラリーのコレクション展に立ち寄ってから帰宅。今回の展示もとてもすばらしい。さまざまな作家のプリントを同時に見比べられるのはとてもよい体験だ。見栄えのするもの、ずいぶん貧弱に見えるものなど、、、ギャラリーという土俵が、その作家にとってどう言う意味を持つかを再認識できる。。。そして、自分の求めているものも、、、、

オリジナルプリントという概念が写真を扱うギャラリーにとって、とても重要だということはたやすく理解できるが、つまり、、、オリジナルであり、そのあらわすものは、まったく別々の解釈の上に成り立っている。それらすべてを受けとめながら、、、同じ土俵には本来上がらないものを、、微妙なフィルターを透して見比べていく。。。販売されている作品であれば、その価格も興味深いところ、、、もちろんギャラリーの個性も現れる。ここには、、、いかにも売れそうなヌードや癒し系の作品が並ばないのが、、、ここの魅力。

こうして並んでみると、技法やコンセプトなんてものは関係なく、ただ、作品、工芸品として、額の中に納まっている。長い目で見れば、デジタルも銀塩もたいした違いはないのだと感じる、、、、、

芸術的表現に銀塩のほうが優れているということはなく、たとえデジタルであっても極限的な情熱と愛情を注げば、至高の作品は必ず生まれてくる。デジタルの技術のベクトルが芸術にそぐわないと言う事はなく、それを生かしきる作家がまだ育たないという段階なのだと思う。むしろ、若い人に今銀塩を勧めるのは、良識ある芸術家のすることではない、、そんな解釈すら、、、、、、

ただ、デジタルカメラの画像を額面どうりに、受け止めるには問題があり、この部分が、未熟な解釈を招き、偏った見方に繋がっている。デジタルカメラの高度なAIが、それぞれの作画に、いろいろなクリエイティブスタイルを当てはめてくれる事は、芸術的な創作には適していないと、、、、、

デジタルであるとか銀塩であること以前に、、それらはすべて写真であること、、、結果に導かれていくものだと思う。

現状、、銀塩から、デジタルに移行した作家が、写真の世界にはたくさんいる。。。もちろん、、それら両方のうまみを知っている強みはあるのだが、、、、そこには、デジタルを銀塩に近づけるとか、、銀塩を超えるとか、、、表現のベクトルが銀塩を基準にした物になりがちだ、、、

わたしの 最も興味を持つところ、、、ただ単に、表現領域を拡大したいということ、、、今、、、見えているのに写らないもの、、、それが何であるのかを知りたい。自分が美しいと思うもの、、何度トライしても写らない、、、仕上げられないものがある。それはおそらく、、テクノロジーの問題ではなく、、自分の生み出す表現の問題、、どう描くのか、、、そのきっかけを、、、つかみたい。銀塩では思いつけなかった、クリエイティブスタイルが、そこにあるような気がする、、、おそらく、、私はそれを、、銀塩で仕上げるのだけれど、、、、、、、、、

デジタルの写真に関わって20年ほど。カメラはもちろん出力も飛躍的に進歩した。先日、春日さんのアトリエを訪ねたのは最近使われるようになってきた、K7インクのシステム、、、

K4を超えて一気にK7を使いこなす事はあまりにも高度な技術が必要なわけだが、これも結果に導かれて生まれてきた表現方法なのだと思う。現状7色。それぞれの人の使い方でその領域はコントロールされる。。。そして、、これも進化の途中で、明日には新しいハードに新しいシステムを身に着けていかなければならない、、、

オリジナルプリントは時代と共に存在する。今、作り得る最高のもの、、、、、方法は問わない。

私にとって、印画紙が存在する限り、銀塩の中にある。


03/23朝 これから川崎へ。写真家の春日さんを訪ねる。

電車にするか、高速バスにするか、、、、


03/21朝 昨日激しい雨の中やっと自宅に戻ってきた。

1週間のスタジオ滞在中はとても忙しく体調も良くないが、今朝になってみると、昨日とはうってかわって快晴。房総はもう春だ。天気が良いだけでテンションが復活する。

これからプリント作業を始めるが、昨年しばらく使っていたバリポイントから普通のコンデンサーへ複露光機の付け替えなどからスタート。基本的なスタイルに戻して現像液もニュートラルのものを用意する。やっとはじめられる。


03/16 やっと確定申告の書類が出来上がった。一年分の帳簿をつけるところからはじめるのだから、まったくもって大変なのは仕方がない。。。では、毎月しっかりと準備をしておけば、、、などと考えるわけだが、、、今すでに3月。たまった3か月分を考えると、一年過ぎてから手をつけても同じか、、、などと考えて、あるいは、まとめてやったほうが効率が良いなどと思ったりして、、、、、、

明日の朝早く提出して、すぐに書籍の表紙の撮影が始まる。。。

ちょっと前に撮影した、落合恵子さんの自伝のカバーフォト、、、もう書店にならんでいる。昔は、何かひとつ仕事が終わると、もっと他の撮り方は無かったのか???などと考えたりしたが、、最近は、自分の流れで仕上げていくのだから、あまり考えない、、、それが一番だと思うようになった。自然な仕上がりが何よりだ。

土曜日。最終日になってしまったが、Gallery BAUHAUS のディアドルフ展を見てきた。他に興味のある作家はなく、目当ては井津建朗。世界にただひとつの特別な世界を感じる。

アーティストの世界に、プロと、アマというような区分けは無いのだが、作家であるということは、みな、特別で固有な世界観を持っている。それはその人の解釈の中にあり、技術や技法といった特定の部分では評価しがたいものだ。

日本人の、あるいは日本の写真愛好家の感性は、それらを、部分的な技法や、コンセプトで共有し、ある意味。。。その本当に特別な世界を理解していないのだと思う。極端な表現になるかもしれないが、技法を習得し、あるいはサブジェクトを吟味してアプローチすれば、同じものが作れると考えているのではないのだろうか?

写真は、高い金を出して買わない、、、そう考える人は、意外にも写真愛好家に多く、、、そしてその上のレベル、写真に真剣に取り組んでいる作家になると、急に他の人の作品も買うようになる、、、つまり、その作品が常人には作れない特別な世界だと、、、あるレベルになると急に気付くのだと思う。。。

工芸としての美しさや、シーンの特殊性?そんなものではなく、、、写真と接する、、、あるいは空間を受け止める感性。。。

来週からコレクション展が始まる。自分の作品を、他の作家の中で、見れるので、私自身にとって、とてもよい体験だ。


03/10 朝から展覧会に出すプリントを選んでいる。いつも新作を、そう思って製作を続けているが、珍しくストックのプリントもチェック。

16x20のマットがかけられる小さなサイズを探しているのだが、近年の11x14インチのプリントは展覧会で販売することが多く、販売してしまうと、小さいサイズの手軽さから、なかなか補充を仕上げない、、、、実際には小さいほうが仕上げるのが大変な場合がしばしば、、、

そんな理由から11x14の在庫のないイメージが結構ある。その辺も何とかしなければ、、、、

プリントを整理するドライワークの部屋は、とても明るくて気持ちが良い。光にかざしてプリントを見ると、新しい諧調が見えてきて銀塩のすばらしさを実感できる、、、

これから車でスタジオに出かける。撮影が忙しく、確定申告も遅れているが、、、セレクトしたプリントを持参するので、少し明るい気持ち。


03/09 平日はスタジオで仕事が終わってから確定申告の準備、、週末は自宅で遅くまでフィルムの現像、、、体力もそろそろ限界。腰痛と、歯茎がはれているのは過労から?

金曜に終電で戻ってから最後のフィルム現像を済ませた。

今日は朝からコンタクトプリントを進めてみたが、、、、いつものことだが、コンタクトは気持ちが入らない、、、、そしてどんどんいやな気持ちになっていく。これは 現像液にパイロが加わってから特に感じる。。。見た目と、ネガのコントラストが違うので、さくさくと進まず、結局テストプリントを作った方が早いと言う結論にたどり着く。。。

全部あわせても100枚そこそこだったと思うが、カットごとにテストを繰り返しながら処理したのでの、10日近くかかってしまった。テストフィルムは乾燥してから微細にチェックして使用可能かどうかを見極める。最近はフィルムの品質が悪いので濡れたフィルムでネガを判断すると思わぬ失敗がある、、、

うまく仕上がったネガを見るのはとても気持ちの良いものだ。ルーペで観察していても、その情報の本当にごく一部しか、、プリントに反映することが出来ないことを感じる。また、ネガの中の、どの情報を自分が求めているかを、いろいろな方法で探し当てなければならない。

近年はオルタネェイティブのケミカルプリントが人気だが、私自身はあまり興味がわかない。。それは銀塩の性能がとても優れているからだと思うが、、それは工業製品に由来し、いつかはなくなってしまうことは覚悟しなければならない。

では、その後に、なにを使って制作活動を進めるのか?その問題は、印画紙の最後の一枚がなくなってから考えることだと思うのだが(日本人は勤勉で、先を見据えてないと愚か者だと考えがちだが)、、、物がなくなることには理由がある。

つまり、もっと優れたものが存在すると言うことだ。たとえ、表面的なスペックであっても、必ず他の技法は存在する。。。それに魂を吹き込むアーティストは、きっといつか生まれてくるのだと思う。。。もし私が長く生きていることが出来たら、新しい技法で夢をかなえたい、、、、


02/17 フィルムの現像を始めた。今日はMQ系のものを10枚ほど。明日からパイロなど難易度の高い処理を始める。かなり降った雪、長く不通になっていた電車など、、、、やっと帰ってきて、処理を始めた。。。

あたりまえの事なのだが、それなりに、気持ちの切り替えも必要。すんなりとははじめられない、、、やっと、始まった。

記録のために撮影したデジタル画像や、フィルムホルダーのメモなどをチェックしながら、処理の順番を決めていく。撮影時の記憶に頼る部分が多いので、気持ちを集中し、撮影時のことを出来るだけ思い描いて時間や攪拌のプロセスを決定する。久しぶりの完全暗黒の作業中にいろいろなことを考える。


言葉と文字の関係、そして、写真の映像としての意味について考える。。。

私にとって、とても、なじみの深い北海道の文化に関する事がきっかけだが、「文字」の存在について考える。

アイヌ民族は、文字を持たなかったと、教えられてきた。そして、、、それらに対する最近の考察として、本土文化や、ヨーロッパの言語に従属した文字表記がアイヌの古い遺跡から発掘された話などが取り上げられ、彼らが文字を持っていたという話が、彼らの文明を庇護するように付け加えられていたりする。。。

たしかに学校で教えられた文明とは、文字を持って、発生し、存在する。。。アイヌの文字に関する記述には、彼らが古くから文字を持っていたから未開民族ではない、、、と言うような記述で、文字を持たない文化ではなかったと、,、解説されていく、、、、

文字は、文明の象徴であり、文字のない社会は、原始的で、幼稚なものだと解釈しなければ先に進めない、、、、

高度な文明は言葉(文字)の中で進化し、、、、文字を持たない文化など存在しないと思わなければ、人間は、、先に進めないのだろうか?これは、「言葉を文字に置き換えて伝達する」と言う単純な図式ではなく、映像を客観的な解釈に導くとか、音楽を楽譜で解釈するとか、、、そういった意味になるのかもしれない、、、

文字を必要としない文明、、、それが問題だ。文明とは客観化された意識の集合に他ならない、、、

書き留めることの出来ない言葉。そこに、美があり、芸術は存在する。。。文学は文字の上にあるのか、、、?その解釈は無意味に感じる。もちろん、、、文字によって、それらを知ってきたのだが、、、文学の芸術としての存在は、、、ただただ、、文字に転化することを否定し、、、そこに、、はかない美しさを探してきたように感じる、、、、、、、、、、、、、、、、、、

文字ではつたわらないもの、、、あって話したいと思うこと、、、。それは、、文明にも、社会にも属さない、美しいたわごと。

それでも人は、、文字を求めてしまう。それは、普遍の言葉であり、共通の夢のようなもの、、、そこに明日があると、、?私には思えないのだけれど、、、それが人間だと、、、なんとなく、わかってきたように感じる。

消えていくこと。何かが残るとき、それは、言葉ではないと思うのだが、、、言葉の中でそれは拡散していく。。。それを否定するように何かを作り続けているのだが、何をそぎ落とせば、そこにたどり着けるのかが解らない。私が北海道に惹きつけられるのは、、そんな流れがあるのだろうか、、、、文字を必要としない、美しい空間、、、

本当に美しい体験は、誰にも話したくない、、、、そんなことを思いながら、、、もちろん文字にすることは出来ないのだけれど。。。この日記を書く。


02/13 またしてもスタジオでの生活が続いている。週末に休みはあったのだが、雪で電車が止まっていたりで、帰らないほうが体力的にも楽に感じてしまったり、、、

NYフィルが来日していてメンバーの取材、撮影もちらほら。個人的に、アメリカ人の撮影は楽に感じる、、、、昨日撮影した フィンレイソン David Finlayson さんは、音楽業界では写真家としてあまりにも有名な方なので、少し緊張して現場に臨んだが、会ってみると気さくな方で、すぐ打ち解けて良い絵が撮れたと思う。

最近、写真展に行くことが、ほとんどなかったが、先日、フジ サロンの Wynn Bullock の展示を見に行った。アメリカの写真を学び始めた頃、最も影響を受けた作家で、おそらく、作品、一点の中に自らの魂を、最も多く注ぎ込んだ作家だと感じる。。。作品は、全て1点で完結している。。画面は隅々までコントロールされ、欠点を感じ取ることはできない、、、

オリジナルに触れることのあった20代の頃、機会があれば、そのプリントをルーペで観察した。複写することができた場合は、4x5で複写し、複製ネガを作ってみた。。。それらの作品が、通常の製作技法から作られたものでないことは、すぐにわかる。。。

たとえ写真集であっても、複写して得られるネガは、通常のネガではない。。。細部までコントロールされ、生み出されたものだと感じる。彼の信念は、50年以上の月日を経ても、プリントの中で。完全な形で生き続けている。芸術をこえて、命を感じる。

今回見ることのできたオリジナルも、完璧なものだ。以前見て、記憶しているものとかなり調子に違いがある物があるが、、、それも、よくある事。。ただ、一点、原版に、わずかな違いがあるようなものを見つけて、ゆっくり調べてみようと思う。波の当たる岩の上、、、ディテールに違いを感じる。

展示会場に関しては、あまりにもお粗末で、これがフジフィルムの本音なのかな??と、感じられなくもない。伝統や、歴史的背景を、ビジネスに転化したいのだが、企業としての解釈に芸術は存在しない。。それは仕方がないとしても、もう少し明るく、そして、見やすい丁寧な展示をしてほしかった。8x10のコンタクトは小さくて、スペースは必要ないと感じたのか、たてに2段に飾られて、どちらの作品を見るのにも、目線が届かない、、、もっとはっきりと見たいのに、、、

あまり展示を見に行くことの無い自分にとってフジのサロンは今回が初めて。そもそも、ミッドタウンはまだ建設途中だと思っていたので、この場所に来るのも初めてだった。フジサロンの展示スペースは大きく分けて2つあり、それらはそれぞれに当たり前の写真を展示している。それらの番外として、余ったスペースのような壁面に Wynn Bullock は展示されていた。

勝手な解釈だが、片方はエディトリアル感覚のジャーナリズム的な切り口のもの、そして、もうひとつは、アマチュアの多くの人にわかりやすいカバーフォト的な美しい写真、、、

エディトリアルのスペースになると思うのだが、名取洋之助賞受賞作品と言うのが展示されていたが、、、名取洋之助と言う人は、少なからず、写真の歴史を客観的に解釈した数少ない日本人だと、思うのだが、この展示はそれから考えると、少しお粗末に感じる。モノクロームなのに、作品一枚に込められた意思を完成させていないように感じる、、、

エディトリアルの観点からも、言葉以前に一枚の絵にこめられた意識が、、、一枚があって、、全てがあることに変わりは無い。。。。言葉が無くても、一枚で、全てを、あるいは感性、、、情熱を、表すものであってほしい。

私が感じること。。。日本で、写真は、社会的メッセージを伝える方法としてある意味、独自の進化を遂げてきたと思う。。表現は情熱に育てられ、あるときは芸術の境界に肉薄し、美しさの中に、、多くのメッセージがこめられてきたのだと思う。。。

そのハードルは、今は、こんなに低くなってしまったのだろうか?XX賞、と言うのが問題なのかもしれないが、、、、


02/02朝 よく眠った。あまりに優れない体調で、作業を進めず、昨日は寝込んでしまったが。今日はすっきり。。。少なくとも今はそう感じている。

風邪をひいた、と言う感じはなく。からだが痛く、薬を飲んでも熱が下がらない、、、そんな感じだったが、久しぶりに自宅に戻ったので、怠け癖が出たのかと思って気合を入れてがんばってみたが、最後にはダウンしてしまった。珍しく、昼間にぐっすり眠り、そして、、夜も眠った。

いつでも作業できるように、暗室の温度を上げ、薬品をそろえていたので気が引ける。。。

今日は夜までにスタジオに入ればよいのだが、雨が降りそうだ、、、早めに出かけようか、、、、


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